【古絵図に記された町と小路】
昭和37年(1962)に「住居表示に関する法律」が公布され、市街地にある建物に順序よく号をふり、分かりやすく住所を表示する「新住居表示」の実施が進みました。酒田市では、昭和40~42年(1965~67)に市街地の新住居表示が実施され、町名ががらりと変わりました。本町、船場町など残っている町名もありますが、町の区画が変更されたため、古い町名がそのまま使われている所はほとんどなくなりました。市内中心部の町並が350年以上前からほぼ変わっておらず、旧町名の多くがそのころから使われ続けていたこと、酒田湊の発展とともに町が北へと拡大し、新しい町ができていることが分かります。
【酒田の創始 徳尼公の伝説】
酒田の町は、古くは「向う酒田」と呼ばれる最上川南岸の袖の浦(宮野浦)にありました。12世紀の末、藤原氏が源頼朝に滅ぼされた時、藤原秀衡の妹・徳の前、あるいは後室・泉の方ともいわれる女性が、36人の遺臣とともに袖の浦に落ち延びてきたのが、その始まりといわれています。この地で藤原一門の冥福を祈りながら余生を送った女性は、今からちょうど800年前の建保5年(1217)、静かにこの世を去りました。戒名は「洞永院殿泉流庵徳尼公」です。その後、36人の遺臣は地侍として船問屋を営み、地元民の先に立って湊の繁栄を支えました。また、長人(おとな)あるいは36人衆と称して、湊町の町政を担ったと云われています。徳尼公(上図像)は、現在も泉流寺(酒田市中央西町)内の徳尼公廟にまつられ、毎年4月15日には36人衆ゆかりの人々が集まり、供養を行っています。
【商人町の酒田町組、城下分の内町組・米屋町組】
江戸時代までの酒田は、亀ヶ畸城分といわれた「内町組」「米屋町組」、向う酒田から移り住んだ36人衆たちが開拓した商人町である「酒田町組」の3地区に分かれていました。内町組・米屋町組は、文明10年(1478)ころに5丁野(現在の四ツ興屋辺り)から新井田川東岸に移転したといわれる東禅寺城(後の亀ヶ崎城)の城下町として形成されました(明治9年(1876)には鵜渡川原村となり、昭和4年(1929)に酒田町と合併しました。)。上杉家支配の慶長4年(1599)ころ、東禅寺城の外郭を新井田川西岸まで広げましたが、最上家の支配を経て、元和8年(1622)に酒井家が入部すると、武家屋敷を引き揚げて町屋敷となりました。その後、内町組・米屋町組と酒田町組との交通の便をよくするために、内町と本町1丁目の間を通した道「突抜(つきぬき)」を設け、同じころに外堀も埋めたといわれています。
【亀ヶ崎城下の鵜渡川原】
元禄99(1696)の亀ヶ崎城下大絵図には、城下町だった鵜渡川原(現在の亀ケ崎地区)の町が描かれています。鵜渡川原の歴史は古く、和銅7年(714)に尾張国愛智郡の農民200戸が開拓したと伝えられています。東禅寺城が五丁野にあった時代には、四ツ興屋の南から鵜渡川原の東端までが「東禅寺」の地名で呼ばれ、城が新井田川東岸に移ると、その外郭となりました。慶長6年(1601)に城主となった志村伊豆守は、最上地方から連れてきた家臣たちを鵜渡川原に住まわせました。戸沢町、長泥町、最上町などの町名は、家臣の故郷からとったといわれています。明治9年(1876)には鵜渡川原村となり、昭和4年(1929)に酒田町と合併しました。
【最上町】
松原小学校西側のイオンに向かう幹線道路に標柱があります。酒田市旧最上町(もがみまち)は、山形県酒田市にあった歴史的な旧町名です。現在の亀ヶ崎四丁目および五丁目の周辺にあたります。江戸時代に亀ヶ崎城の城下町(鵜渡川原村の一部)として成立し、最上方面から来た与力や給人(武士)が居住したことに由来します。戦国時代末期、最上氏が庄内を領有し亀ヶ崎城主となった際、家臣たちを周辺に住まわせて町割を行ったのが始まりです。最上方面から赴任した家臣・与力給人たちが暮らしたことから、「最上町」と名付けられました。明治期以降も酒田の町名として引き継がれましたが、昭和40年代の住居表示の実施により、現在の亀ヶ崎四・五丁目等に変わりました。江戸時代に最上氏の浪人や家臣が住んだことに由来する地名で、元は「最上町」と呼ばれ、後に「左沢町」とも呼ばれた歴史的区域で、酒田市が合併・住居表示を実施するまで使われていた本町通り周辺の城下町の一部を指します。特に、最上氏転封後に浪人(足軽)が住み着き、「最上町」の名が生まれ、その後左沢から移住してきた足軽により「左沢町」とも呼ばれるようになった経緯があります。
【立町】
千石町二丁目豊受神社の近くに標柱があります。酒田市における「立町(たちまち)」は、江戸時代からの歴史を持つ古い町名(旧町名)の一つです。昭和30〜40年代の住居表示の実施に伴い公式の住所としては消滅しましたが、現在も地域の歴史や自治会の名残として伝えられています。かつて上杉氏の支配時代などに、川村兵蔵が町を立てたこと(整備したこと)に由来するとされています。亀ヶ崎城周辺の城下町(内町組など)の旧町名の一つとして知られ、現代の町名では亀ヶ崎三丁目・四丁目、若原町、堤町、千石町二丁目などの周辺エリアにあたります。酒田市では昭和40年度からの住居表示事業により多くの江戸期からの町名が姿を消しましたが、市民の生活や歴史的記憶、保存事業の標柱などを通して「旧・立町」の地域名称が親しまれています。つまり、「旧立町」とは、酒田の古い町名が使われていた時代の、特に湊町の中心部を指す言葉であり、現在の酒田市の街並みの歴史的なルーツを示しています。
【長泥町】
亀ヶ崎3丁目の路地(市中心部に向かって進むと、千石町2丁目の日本海酒田リハビリテーション病院に突き当たる通り)にある、消防ポンプ小屋のところに標柱があります。酒田市旧長泥町(ながどろまち)は、山形県酒田市にあった江戸時代からの歴史ある旧町名です。現在の亀ヶ崎三丁目および四丁目付近に相当し、昭和40年代の住居表示実施により消滅しました。江戸時代初期、最上氏の家臣団や領内の人々が移住した際、現在の東根市にあたる長瀞(ながとろ)の出身者たちがこの地に居住したことにちなみ「長泥町」と名付けられました。亀ヶ崎城(東禅寺城)の周辺や鵜渡川原の地域に作られた武家地・町人地の一つであり、元禄9年(1696年)の城下絵図にもその名が確認されています。昭和30年代まで旧町名として使われていましたが、昭和40年(1965年)からの住居表示の変更に伴い、現在の亀ヶ崎の町名へと変わりました。
【袋町】
亀ヶ崎3丁目の該当地域をこまなく歩き回りましたが、標柱は見当たりませんでした。東端が袋小路になっていた地形からその名が付けられ、昭和40年代の住居表示実施に伴い、現在は亀ヶ崎三丁目の一部となっています。町の東端が袋小路(行き止まり)のようになっていたことに由来します。元禄9年(1696年)の亀ヶ崎城下絵図にも記載が見られる古い地名で、周辺の最上町や戸沢町、長泥町などとともに、城下の一角を形成していました。昭和30年代まで使われていましたが、昭和40年(1965年)からの住居表示事業により改編され、歴史ある旧町名の一つとしてその名が閉じられました。最上川の舟運で栄えた酒田の町は、この旧袋町を含む一帯に広がり、商業の中心地として賑わいました。具体的な由来は文献によって異なりますが、商人や職人、商家が集まる地域であり、町の発展とともに形成された地名です。
【横町】
亀ヶ崎保育園の近くに標柱があります。酒田市における「横町(よこまち)」は、江戸時代から昭和40年代の住居表示実施前まで存在した古い町名(旧町名)です。最上町などの他の町筋に対して横方向に位置していたことから名付けられた地名で、現在は亀ヶ崎五丁目の一部となっています。江戸時代に成立した町割りのうち、周辺の町(最上町や長泥町など)に対して「横」手に位置していたことに由来します。昭和40年(1965年)から昭和42年(1967年)にかけて行われた酒田市の住居表示の整備に伴い、公式な町名としては姿を消し、現在は「亀ヶ崎五丁目」に組み込まれています。城下町は内町組と米屋町組に分かれ、酒田町組と区別されていました。上杉氏支配の時に土塁や堀を築き、東禅寺分と呼びました。最上氏になり志村伊豆守は家臣を鵜渡川原村に住まわせました。出身地から町名をつけた、武家のたたずまいが残る町並が残ります。
【戸澤町】
亀ヶ崎小学校の正面(西側)に標柱があります。「酒田市旧戸澤町(とざわまち)」は、山形県酒田市の亀ヶ崎一丁目・二丁目・三丁目付近にあたる歴史的な旧町名です。現在の山形県最上郡戸沢村とは異なり、酒田市の城下町形成に由来する地名です。関ヶ原の戦い後、最上氏の配下となった志村伊豆守光安が亀ヶ崎城(当時は東禅寺城)の周辺を整備した際、家臣団を鵜渡川原村に住まわせました。戸澤方面(最上地方の戸澤)から来た人や、ゆかりのある人々が居住したことにちなんで「戸澤町」と名付けられました。最上氏の家臣が移り住んだ際、故郷にちなんで「戸澤町」「長泥町」「最上町」などの町名がつけられたとされます。江戸時代から昭和30年代まで使われた旧町名で、昭和40年代の住居表示の実施により現在の亀ヶ崎一〜三丁目等に組み込まれました。現在でも地域コミュニティの名称(四十五区戸澤町自治会など)にその名が残っています。
【横道町】
酒田東高等学校の西側(新井田川側)に標柱があります。酒田市旧横道町(よこみちまち)は、山形県酒田市にあった江戸時代からの古い町名です。昭和40年代の住居表示の実施に伴う町名変更により、現在の亀ヶ崎一丁目、二丁目、三丁目の一部となりました。江戸時代からの歴史を持ち、亀ヶ崎城下などの絵図にも名前が見られる古い地名です。長い間、地域の人々に親しまれてきた旧町名の一つです。昭和30年代末から40年代にかけての区画整理や住居表示の変更により、現在の亀ヶ崎のエリアに移行しました。新井田川沿いの「河岸八丁」の一つとして最上川の舟運で栄えた湊町・酒田の歴史を伝える地名で、今は新しくつけられた町名(住居表示)に変わっていますが、一部には旧町名が残る標柱なども見られます。「横道町」は、東禅寺城の外堀があった場所が広くなり、それが町名になったとされ、当時の商工業の中心地の一つでした。
【鍛冶町】
二番町サンモール商店街通りに標柱があります。酒田市旧鍛冶町(かじまち)は、山形県酒田市の中心部にかつて存在した江戸期以来の古い町名です。北前船の交易で栄えた湊町において、多くの鍛冶職人や金物関連の家系が暮らした場所であり、戦後にはネオンサインや商店が並ぶ賑やかな一角でしたが、その後の住居表示の実施や昭和47年の酒田大火を経て、現在の「二番町」などの区域となりました。江戸時代からの町割りに由来し、その名の通り鍛冶職人や金物業を営む人たちが多く住んでいました。出雲などから北前船で運ばれてきた鉄を使い、鍬や鎌、刃物などを生産して各地へ送り出す拠点の一つでした。鍛冶町で代々鍛冶職を続けた池田多四郎家などの古い家系も記録されています。酒田大火前は商店や食堂、ネオンサインが立ち並び、市民の生活や商業の身近な中心地として親しまれました。昭和30〜40年代以降の住居表示の変更などにともない、現在の「二番町」などの一部区域へと引き継がれています。
【桶屋町】
中町サンモール商店街通りに標柱があります。酒田市旧桶屋町(おけやまち)は、山形県酒田市の中町一丁目付近にあたる江戸時代からの歴史ある旧町名(職人町)です。昭和40〜42年の住居表示実施により公式の住所としては消滅しましたが、現在も地域の歴史を伝える名称や自治会、保存標柱などにその名が残っています。江戸時代、酒田湊の繁栄とともに、桶を作る職人(桶屋)が多く住み分けたことから「桶屋町」と呼ばれました。酒田の中心市街地(中通り商店街や鍛冶町周辺)の一角をなし、かつては目に効くといわれた薬師様にゆかりの井戸などが存在した地域です。現在の行政地名では中町一丁目の範囲に含まれています。酒田市による旧町名保存事業の一環として、由来を示す標柱が建てられており、地域の歴史的遺産として親しまれています。酒田湊の商業・海運が発展した時期に栄えた地域です。現在の酒田市中心部(中町の一部など)に位置し、「桶屋小路」とも呼ばれ、酒田の歴史的な町割りを伝える重要な場所です。昔の酒田の湊町の面影を伝える旧町名の一つであり、酒田市資料館などでその歴史が紹介されています。
【大工町
】中町サンミール商店街通りに標柱があります。酒田市旧大工町は、かつて酒田の商業・繁華街の中心地であり、酒田市中心部にある江戸時代からの古い町名です。本町通り周辺に位置していましたが、明治期の大火(1894年)で町並みが大きく焼失し、その後は再建されて商店街として賑わいました。現在の中町一丁目の一部にあたります。かつて大工職人や御用達の商人が多く暮らした歴史を持ち、昭和40年代の住居表示実施によって消滅した旧町名の一つです。江戸時代の慶長・元和年間(1596〜1624年)頃に町割が行われました。当初は中町三丁目などとも呼ばれ、のちに分離して「大工町」となりました。町名の通り、多くの大工職人や町人が居住していました。日和山や中町通りへ続く要所として栄えました。昭和30年代まで「大工町」の名称が日常的に使われていました。昭和41年(1966年)前後の住居表示の実施により、現在の中町一丁目に変更されました。周辺地域は昭和51年(1976年)の「酒田大火」で大きな被害を受けましたが、その後復興を遂げ、現在は中通り商店街などの中心市街地の一部となっています。
【檜物町(曲師町)】
酒田のサンモール街の一本北側の通りに標柱があります。酒田市の旧檜物町(曲師町まげしちょう)は、酒田城下町の成立期に存在した町名で、主に魚(肴)を商う人々が住んでいた商業地であり、最上氏時代から酒井氏入国後にかけて、現在の本町周辺の場所で栄え、後に現在の本町一丁目・二丁目あたりに移転・再編された歴史を持つ地域を指します。最上氏の時代、酒田の城下町が形成される中で「曲師町」という町が生まれ、魚介類の問屋が多く住んでいました。「曲師(まげし)」は、馬の鞍(くら)を扱ったり、馬具を作る職人(曲師)が住んでいたことに由来する説や、魚の「肴(さかな)」を意味する言葉が転じたという説があります。東は東禅寺分名子屋小路、西は雷小路に挟まれた東西に連なる両側町で、古くから木製品を作る「檜物師(ひものし)」が多く住んでいたことからその名が付けられました。江戸時代の酒田湊の町組の一つとして形成されました。現在の酒田市二番町周辺にあたります。昭和時代の住居表示の実施に伴い、町名としては姿を消しました。
【上内匠町】
中町一丁目市営地下駐車場隣の天満宮前に標柱があります。酒田市の上内匠町(かみたくみまち)は、江戸時代の町割りに由来する古い地名です。元和5年(1619年)の町立ての際に尽力した肝煎(町役人)である斎藤内匠の名に由来しています。江戸時代から続く酒田の旧町名の一部で、明治・大正・昭和初期まで存在し、現在(昭和40年代以降)は住居表示の変更により「中町」や「本町」などの一部に再編されていますが、その歴史や地名に親しむために保存された標柱や資料、地元での呼び名(「たぐまぢ」など)にその名が残る、酒田湊の繁栄を支えた商人町の名残です。「忠臣蔵」でおなじみの浅野内匠頭と同じ「たくみ」と読まれる歴史ある町名です。醤油蔵や商家が並ぶ本町通り周辺のエリアを指し、かつては最上川の舟運や海上交通で栄えた酒田の商業の中心地でした。大正時代初期から映画館などが集まり、昭和51年(1976年)の酒田大火前には「中央座」や「酒田大映」があった場所として知られています。大火後の区画整理や住居表示の実施により、現在の「中町一丁目」や「中町二丁目」などの周辺エリアにあたります。また、地名は「たくみ通り」などの商店街の名称や歴史の中に引き継がれています。
【下内匠町】
中町二丁目の最上屋旅館の近くに標柱があります。山形県酒田市の中心部(現在の中町二丁目・三丁目付近)にあった江戸時代からの古い町名です。元和5年(1619年)の町割を行った頭取・肝煎(きもいり)であった斎藤内匠(さいとうたくみ)の名前に由来しています。1619年に斎藤内匠が町割(区画整理)を行ったことで「内匠町」となり、その後1683年頃に上下に分かれました。「しもたくみまち」と読み、地元では「たく町」などと略されることもありました。昭和40年代(1965〜1967年)の住居表示の実施により、現在の中町二丁目および三丁目の区域に変わりました。地域名や自治会名として「下内匠町」の名称が今も残っています。江戸時代に形成された「酒田町・内町・米屋町」などの旧町名が昭和30年代まで使われ、その後、新しい住所表示(住居表示)の実施に伴い変更されたもので、「内匠(たくみ)」の名の通り、町割りに深い関わりがある地名です。忠臣蔵の浅野内匠頭と同じ読みで、正式には「たくみ町」と書かれ、口頭で「たぐ町」「たぐまぢ」と略されて呼ばれることもありました。現在でも中町3丁目などに「下内匠町自治会」が存在するなど、地域には旧町名が引き継がれています。
【十王堂町】
一番町の十王堂前に標柱があります。かつて山形県酒田市に存在した江戸時代からの古い町名です。現在の相生町二丁目および二番町のあたりにあたります。地名は、かつて地内にあった「十王堂」というお堂に由来しています。正徳寺の門前にあった十王堂(死者の生前を裁く十王を祀るお堂)にちなんで名付けられました。元々は鍛冶町に対して「横鍛冶町」と呼ばれていましたが、のちに十王堂町に改称され、さらに「じゅうおう」が訛って「浄土町」とも呼ばれました。1976年(昭和51年)の酒田大火の際、周囲が焼け野原になったなか、十王堂だけがぽつんと奇跡的に残ったことで知られています。地名自体は、歴史的な町名変更の際に消滅しましたが、地方文化としての貴重な地名として、その記憶は今も残されています。昔の町名は、その土地の歴史や文化を色濃く反映しており、旧十王堂町も何らかの由来があって名付けられたと考えられます。
【寺町】
中央西町のお寺さんが密集している所に標柱があります。酒田市旧寺町とは、かつて山形県酒田市の中心部(現在の寿町や中央西町付近)に存在した、多くの寺院が集まる古い町並みおよび旧町名です。江戸時代に北前船の寄港地として栄えた酒田で、航海の安全や商売繁盛を願い、船主や豪商たちが競って寺院や寺町建築を寄進したことで形成されました。寿町や中央西町などの「寺町通り」を中心に、約10ヶ寺もの歴史ある寺院が立ち並びました。酒田を代表する豊かな商人や船主たちが、立派な本堂や建築物を競って寄進した歴史があります。境内には市指定文化財の天正寺や、酒田三十六人衆ゆかりの泉流寺(徳尼公廟)などが残っています。昭和30〜40年代以降の住居表示の実施にともない、「寺町」という旧町名は現在の寿町や中央西町などに移行・統合されました。現在も古い町割りの名残や重厚な瓦屋根の寺院建築が残り、往時の湊町酒田の歴史を伝えています。現在は一部商店街や商業地へと変化しましたが、その名残として「寺町」という通称や、かつての町名が残されています。現在の中町商店街(サンモール)周辺から、駅方面(中央西町、寿町など)まで広がるエリアです。建物は様変わりしましたが、その歴史的な背景から、現在も「旧寺町」として親しまれ、商店が並ぶ賑やかなエリアとなっています。
【荒町】
日和山公園の登り口に標柱があります。日和山公園下にあったとされる「上荒町」や、荒瀬郷からの米蔵に由来する「荒瀬町」などがあります。江戸時代からの歴史を持つ古い町名ですが、昭和40年代の住居表示の実施に伴い、現在の町名へと変更されました。上荒町(かみあらまち)日和山公園の下にあった地域で、本町に対して「新町(あらまち)」の意味で名付けられたといわれます。江戸時代には漁師町・猟師町としての性格を持ち、多くの漁業関係者が暮らしていました。現在は「日吉町」などに含まれるエリアを指し、江戸時代から続く酒田の重要な町の一つでしたが、住居表示の変更により「荒町」という町名は消滅しました。下荒町は、桜小路を下り、下台町と上台町の間です。斎藤魚屋さんの風干し鮭がずらりと店先に下がっています。創業明治36年、向かいの市原醸造店では、レンガ作りの煙突がある工場で、昔ながらの味を守っています。たぶの木の生け垣に黒塀という、酒田の典型的な町屋の造りのお宅があります。水分を多く含むたぶの木と黒塀は、西日や西風を防ぎ、火事の延焼も防ぎました。酒田は海運で栄え、江戸時代には「酒田町」「内町」「米屋町」といった主要な町があり、「荒町」もその一つでした。建物が減り、今は道路だけになっている場所も多いですが、資料館などで「旧町名保存標柱」が設置され、その名残が伝えられています。
【上小路】
酒田地区広域行政組合消防署みなと分署の南側(酒田港側)に標柱があります。酒田市にかつて存在した江戸時代からの古い町名(旧町名)です。現在の「船場町一丁目」および「日吉町二丁目」の一帯にあたります。明暦2年(1656年)の酒田町絵図には「猟師町東小路」として記されており、当時は49軒の屋敷がありました。その後、天和3年(1683年)の記録では「上猟師町」となり、のちに「上小路」と呼ばれるようになりました。明治時代初期の区務所再編の際には、下通りなどとともに「上小路」の名称が行政区画の統合名として使われた歴史があります。かつて酒田の町にあった重要な小路の一つで、「上荒町と上喜元の間、船場町までを結ぶ道」を指し、港に近く廻船問屋も置かれ、「猟師町東小路」とも呼ばれ、船場町へ下る急な坂は「上小路坂」と呼ばれていました。東西は鶴岡街道(国道7号線の一部)とつながり、船場町へ下る上小路坂は急勾配で、北前船の船乗りも通る交通の要所でした。この小路には、大規模な町屋として知られる橋本家住宅(酒田酒造)など、往時の酒田の繁栄を伝える建物が残っていました。現在は「上小路」という地名は使われていませんが、当時の面影を残す小路や、その歴史は酒田の文化財や資料館で学ぶことができます。
【下小路】
日吉町二丁目の「うなぎ玉勘」付近をこまなく歩き回りましたが、標柱は見当たりませんでした。江戸時代からの歴史を持つ酒田の旧町名(小路名)および、それに由来する通りの名称です。現在の船場町一丁目および日吉町二丁目のあたりに位置していました。酒田の歴史ある町割りにおいて、南北に走る数多くの小路の一つとして数えられてきました。下台町と桜小路の十字路から曲がり、旧菊水ホテル前を経て船場町へと至る小路です。かつては猟師が多く住んでいたことから「猟師町西小路」と呼ばれたこともあります。船場町へ下る急な坂道は「下小路坂」と呼ばれ、日日和山公園や海向寺へと通じる周辺の散策路としても知られています。昭和40年代(1965年〜1967年)の住居表示実施に伴い、現在の町名(日吉町や船場町など)へと引き継がれ、旧町名となりました。かつての酒田の街並み(江戸時代の酒田三町、明治・大正期の発展期)に残っていた細い路地や地域を指し、現在は住居表示の変更などで名称が失われた、あるいは変わってしまった場所にある歴史的な通称です。具体的な場所は地図で見ると、現在の町名と重ね合わせることで確認でき、酒田の歴史を伝える重要な手がかりとなっています。これら失われたり、呼び名が変わったりした小路の名称が「旧下小路」として、古い地図や資料に残されています。
【桜小路】
日和山小幡楼日和亭近くに標柱があります。酒田市旧桜小路は、酒田市の旧酒田町内において唯一「桜」の文字が使われていた由緒ある地名・小路名です。桜並木があったために名付けられた歴史的な地名で、幕末の「酒田十景」にも描かれた風情ある場所で、小幡前(下台町付近)から船場町方面へ続く坂道で、下台町横小路や小右衛門小路とも呼ばれ、廻船問屋も軒を連ねた酒田の要衝でした。江戸時代から昭和42年の住居表示実施(現・日吉町二丁目付近)まで正式な町名として存在し、戦前の高級料亭「瞰海楼小幡(小幡楼)」や美しい石段・眺望で知られていました。江戸時代後期の1789年(寛政元年)頃から文献に名が見られます。日和山の高台から最上川を望む景勝地に位置していました。かつて周辺には桜の木や石段があり、酒田の俗謡「顔はほんのり桜小路」にも唄われています。瞰海楼小幡(小幡楼)は、中央の名士や政治家も利用した戦前の代表的な老舗料亭です。旧小幡の建物周辺は映画『おくりびと』のロケ地としても有名です。北前船の往来で栄えた酒田の港町の一部であり、廻船問屋なども置かれ、交通の要所として賑わいました。現在は「桜小路」という名前の小路として、当時の面影を残す場所として存在しています。
【出町
】日和山公園に隣接した皇大神社に通ずるとば口に標柱があります。酒田市旧出町(でまち)は、山形県酒田市の中心部にかつて存在した江戸時代からの古い町名です。昭和40年代の住居表示の実施に伴い町名が変わり、現在は船場町一丁目や日吉町二丁目のあたりにあたります。古くから「花の今町かすみの出町」と俚謡(りよう)に唄われた歴史ある地名でした。小路の北端から西に延びる両側町として栄えました。元禄時代以降、船場町が栄えるとともに形成されたといわれています。古くは「猟師町」といわれた通りの一部ですが、「出町」と表示されるようになってからの場所が、絵図によって食い違っています。元文4年(1739)の「三十六人御用帳」に名前があります。花の今町かすみの出町”と古くから俚謡に唄われて来た町名が消え去ってしまいました。新町名は日吉町です。なんと味気ない名前でしょうか。他にも由緒ある町や小路名が次々と消えて行きます。多くの人、中でも文化人と称される人々の反対にもかかわらず、情容赦もなく改名はつづきます。単なる感傷と言えばそれまでですが、それはそれなりの理由があるんだろうという疑問にかられています。
【秋田町】
日和山上り口近く中町二丁目に標柱があります。酒田市旧秋田町(あきたまち)は、酒田市にあった江戸時代からの古い町名です。昭和40年代の住居表示の実施により廃止され、現在は中町三丁目、日吉町二丁目、船場町一丁目、本町三丁目などの一部になっています。1601年(慶長6年)に亀ヶ崎城主が町割(区画整理)をして作られました。日本海側の浜街道を通り、北方(秋田方面)へ向かう道筋にあたっていたためです。酒田の年寄役が秋田から来たことに由来するという説もあります。かつては多くの旅籠屋や伝馬屋敷が並び、交通や宿場の要所として栄えました。酒田から秋田へ向かう秋田街道沿いに栄えた宿場町・商業地で、旅館や商店が多く、伝馬町と並ぶ重要な地域でした。現在は使われなくなった古い町名ですが、酒田湊の歴史を伝える重要な地名です。秋田街道(羽州街道)に面していたため、また秋田から来た人や物が集まる場所だったことから「秋田町」と名付けられたと言われています。街道沿いの要衝として、多くの旅籠(はたご:旅館)や商店が集まり、往来する人々で賑わいました。江戸時代から明治・大正・昭和にかけての酒田の繁栄を物語る地名であり、当時の絵図や古文書にも登場します。
【傳馬町】
今町通りの日和山に近い場所(昔合同タクシーがあった)に標柱があります。田市旧傳馬町(でんまちょう)は、秋田街道の入口に位置し、江戸時代から宿場町・商人の町として栄えた古い町名です。江戸時代に傳馬(宿駅間の人馬継ぎ立て)の役所や宿屋が置かれ、街道の要衝として栄えた歴史を持つ地域の旧称です。江戸時代の「傳馬」とは、人や荷物を馬で次の宿場まで運ぶ制度で、傳馬町にはそのための施設(傳馬屋敷、旅籠屋など)が集まっていました。日本海を縦断する浜街道(秋田街道)に位置し、秋田町と接する傳馬町は、物資や人の往来が非常に盛んな場所でした。より多くの馬を備えていた地域を「大傳馬町」、少ない方を「小傳馬町」と呼ぶこともあり、酒田でもそのような区分けがあったと考えられます。隣接する秋田町などとともに旅籠屋や馬宿、多くの商家が軒を並べて大いに賑わいましたが、昭和30年代以降の住居表示の実施により、現在の町名へと変わりました。秋田街道の入口にあたり、公用のお馬や人脚を継ぎ立てる「傳馬宿駅(傳馬役)」が置かれていたことに由来します。白崎家(越前屋呉服店や菱五商店など)の大型呉服店・商家のほか、昭和36年(1961年)まで百貨店「清水屋」が営業していた場所としても知られています。かつての酒田湊の繁栄を伝える歴史ある小路・町名でしたが、昭和40年代初頭の住居表示の変更に伴い、古い町名は姿を消しました。
【今町】
巖嶋神社入口近くに標柱があります。酒田市の旧今町(いままち)は、江戸時代初期(17世紀後半)に開かれた歴史ある旧町名です。秋田街道沿いに位置し、かつては茶屋や旅籠などが並んで賑わい、周辺には遊廓(今町遊廓)なども存在したことで知られています。昭和40年(1965年)からの住居表示実施に伴い、現在の寿町、栄町、日吉町、北今町などの一部となりました。もとは砂原でしたが、天和3年(1683年)頃から町家が増えて形成されました。秋田街道(酒田町組の北端、伝馬町の北)に接しています。街道沿いで茶屋稼業の者が多く住み、厳島神社の東側周辺には今町遊廓が栄えました。昭和30年代まで使われていましたが、その後の区画整理や住居表示の変更により消滅しました。昔は五叉路の交差点の周辺に旅館や商店が集まり、明治から昭和にかけて道路整備でその姿を変えながらも、酒田の発展を支えた地域です。明暦年間(1657~1682年)に町割が行われ、秋田街道(現在の国道345号線)沿いに位置したため、多くの茶屋が軒を連ねる宿場町として栄えました。最上川の舟運と街道が交わる要衝で、特に「今町交差点」周辺は、明治から昭和にかけて道路の拡充・整備(駅方面への新道建設など)が進み、現在の五叉路の形になったのは昭和初期頃です。
【臺町(台町)
】日枝神社東側登り口横に標柱があります。酒田市旧臺町(旧台町)は、最上川河口の港町・酒田において、かつて北前船の交易とともに料亭街・花街として大いに栄えた高台の繁華街です。周囲を坂に囲まれた歴史ある地域で、現在も当時の面影を残す建造物が残っています。かつては多くの料亭や芸妓が軒を連ね、酒田の粋な料亭文化の中心地でした。明治期に建てられた料亭建築である「山王くらぶ」や、酒田舞娘の踊りなどが楽しめる「相馬樓」などがあります。黒塀やベンガラ色の格子の町家が残り、「姿見小路」といった哀愁を帯びた名前の小路も伝えられています。最上川河口の港町・酒田で、小高い丘の上に位置し、かつて料亭が立ち並ぶ繁華街として栄えた歴史的なエリアです。山王くらぶや相馬樓、現役の香梅咲など、明治・大正時代の料亭建築が残り、「酒田甚句」にも歌われた花柳界(料亭遊び)の舞台であり、現在も雅な町並みと文化が息づく観光名所となっています。『酒田甚句』に「毎晩お客はどんどんしゃんしゃん」と歌われるほど、料亭遊びが盛んな場所でした。昭和の頃は遅くまでネオンがつき、二軒、三軒と梯子して歩く姿が見られました。上台町の景色は、傘福で有名な山王くらぶ、東北最古のキャバレー白ばら、廃仏毀釈の際に多くの仏像を救った佐藤泰太郎棟梁の千仏閣、映画「おくりびと」の舞台になった港座と続きます。泰太郎棟梁の作った港座の前身は日本一の芝居小屋で、廻り舞台や「せり」や奈落もあり、東北一といわれました。)
【染屋小路】
NTT東日本山形支社庄内営業所の1本裏通り(西側)に標柱があります。江戸時代から酒田の湊町・中心街として栄えた「河岸八町」の一つで、現在の本町三丁目付近にあたります。名前の通り、かつては布などを染める染物業者が多く住んでいたほか、川船の業者や問屋なども軒を並べて賑わっていました。河岸八町の一つで、最上川に接し、船場町が発達する以前の酒田湊の中心を担った古い町筋の一つです。染屋を生業とする人々が多く居住したことに由来します。文政5年(1822年)には染屋小路からの出火により、周辺の数百戸を焼失する大火に見舞われた歴史もあります。:住居表示の実施に伴い、現在は「本町三丁目」の一部となっています。昔の地図や記録に登場し、酒田の歴史を伝える重要な遺産となっています。河岸八丁(新井田川沿いの町々)の一部として、酒田湊の発展とともに形成されました。『明暦2年(1655)酒田町絵図』や『酒田袖之浦小屋之浜之図』といった古い絵図・地図にその名が残っています。「旧染屋小路」は、かつて酒田の街にあった、染物に関連するであろう歴史的な細い道(小路)の名前であり、酒田の古い町並みや文化を今に伝える貴重な歴史的遺産です。
【利右衛門小路
】NTT東日本山形支社庄内営業所裏(西側)に標柱があります。酒田市旧利右衛門小路(りえもんこうじ)は、山形県酒田市の中央部にあった江戸時代からの古い小路名(旧町名)です。明暦2年(1656年)の絵図にも描かれた歴史ある通りで、当時に豪商・町年寄であった村井利右衛門(村井理右衛門)が住んでいたことに由来します。江戸時代初期(1656年以前)から続く古い区画です。酒田の湊を支えた「河岸八町」の一つで、川船業者や問屋が多く集まっていました。明治時代から昭和32年(1957年)頃まで、この小路の一角(現在のNTT東日本酒田支店付近)には酒田警察署が置かれていました。昭和40〜42年の住居表示の実施により、現在の本町三丁目および船場町二丁目のあたりにあたります。かつて酒田市の中心部にあった歴史的な小路(通り)で、現在の富重や大沼酒店付近の通りを指し、かつては酒田警察署(明治〜昭和32年)もこの近くにありました、歴史と商業の中心地でした。江戸時代から続く「酒田町・内町・米屋町」という酒田三町の構成要素の一つで、内町と米屋町を結ぶ交通の要衝として「突抜」と呼ばれる道が設けられた頃から存在しました。 明治時代から昭和32年まで酒田警察署が置かれるなど、行政・商業の中心として栄えました。
【下袋小路
】NTTの裏通り料理屋富重の近くに標柱があります。現在の山形県酒田市本町三丁目付近にあたる江戸時代からの旧町名(小路名)です。東は御宿小路に接し、南は最上川に面した鉤(かぎ)形の袋状の道で、川船業者や問屋が軒を並べて栄えました。河岸八町の一つ: 本町と最上川の荷揚場を結ぶ「河岸八町」と呼ばれる一角に属していました。道が袋状になっていたことや、鉤型に行き止まりのよう曲がっていた地形に由来しています。最上川舟運の拠点として、川船業者、問屋、船宿などが集まっていました。昭和40年代の住居表示の実施に伴い、現在の「本町三丁目」の一部となりました。江戸時代、長人(おとな)と呼ばれる三十六人衆が中心となり、西浜の砂原を開拓し酒田の町並を作ったといわれます。旧暦4月中の申の日(日枝神社祭礼の日)、太陽が日本海へ沈む真っ直ぐの線(正中線)を選び、一ノ丁から七ノ丁まで仕切り、本町と名付けました。ここが酒田町組の中心となり、この通りを軸として栄えました。酒田では東西の縦軸を「通り」、南北の66の横軸を「小路」としました。一説には最上川に沿って町割をしたとも言われています。この町割はそのまま残り、現在の酒田の町並を作っています。下袋小路.は行き止まりの袋小路でした。
【実小路(御宿小路)】
酒田市役所の西側に標柱があります。酒田市旧実小路(じっこうじ)は、山形県酒田市にかつて存在した江戸期からの町名・小路(現在の酒田市役所や亀屋菓子舗の周辺付近)です。もともとは「御宿小路」と呼ばれていましたが、明治9年に「実小路」へ改称され、昭和42年の住居表示実施まで使用されました。天正19年(1591年)、加賀藩祖・前田利家が奥州南部の一揆制圧の帰路に酒田を訪れ、町年寄役の上林和泉の家に宿泊したことに由来します。その際にこの一帯が将士の宿所とされたことから、当初は「御宿小路」と呼ばれていました。江戸時代は酒田湊の河岸八町の一つとして船運業者や問屋が軒を並べ、近代以降も酒田と鶴岡を結ぶ道路の重要な入口となりました。昭和8年からの国道7号線の道路工事や昭和11年の実生橋完成などにより、周辺の景観や役割が大きく変化しました。この地には悪霊や疫病の侵入を防ぐとされる「実小路の道祖神」の伝承なども残されています。酒田市の「実小路」は、かつて「御宿小路(おんじゅくしょうじ)」と呼ばれた歴史ある小路で、酒田湊の発展とともに形成された旧町名の一つです。最上川南岸から移転した酒田の町で、特に江戸時代から昭和30年代頃まで使われていた地名で、明治時代には鶴岡街道の入口として重要な役割も果たしました。「御宿小路」が「実小路」に変わった経緯は、江戸時代に最上川南岸から移転してきた町が発展する過程でつけられた名前です。特に江戸時代には、大庄屋の屋敷や本間家の下屋敷があった場所でもあり、宿場町としての性格も持っていました。
【中袋小路】
本町二丁目の希望ホール駐車場の所に標柱があります。酒田市旧中袋小路(なかふくろこうじ)は、山形県酒田市の江戸期からの古い町名(現・本町二丁目付近)であり、東は山椒小路、南は最上川に至る、直角に曲がった鉤形(かがり形)の小路です。江戸時代に成立した酒田の古い町名・小路の一つです。道が直角に曲がる構造(鉤形)をしています。防御上の目的(敵の侵入を防ぐ、城を守るための工夫)を持って作られた袋小路の一つとされています。現在の酒田市本町二丁目、酒田市民会館(希望ホール)の脇や市役所周辺の通路・小路としてその名残をとどめています。当時と同じように直角に曲がる形状が、周辺の散策ルートや観光地ガイドなどでも紹介されています。河岸八丁のひとつ。明暦2年以前の創始。町の形が袋小路になっています。現在では市民会館の脇の通路のようになった中袋小路には、昭和29年9月にオープンした逓信診療所で、後には希望ホール建設前まで市役所の分庁舎として使われていました。中袋小路付近は、新井田川舟運時代の名残で、丸新旅館、丸徳旅館、春日屋など、旅館が多い場所でした。明治中期までの地図では中袋小路から山居側(まだ山居倉庫はありません)に渡る橋があったことに注目できます。明治後期には山椒小路に橋(永世橋)が移っています。なお、江戸時代はこのあたりには橋は皆無でした。
【山椒小路】
酒田市役所東側に標柱があります。酒田市の「山椒小路(さんしょうこうじ)」は、山形県酒田市本町(現在の酒田市役所や希望ホールが並び、新井田川へ向かう通り周辺)の旧町名および通りの古い呼び名です。かつては最上川に通じる河岸八町の一つとして船宿などが並び、大変に賑わった歴史ある一角でした。城下・湊町の面影:城を守るために直角に曲がった構造など、昔ながらの古い小路の区画を残しています。間口が狭く細長い特徴的な家屋が並んでいた地域で、この地で暮らした本間美術館館長などを務めた郷土の文化人・佐藤山椒亭(佐藤三郎氏)が、親しんだこの旧町名を自身の川柳号(ペンネーム)に用いたことでも知られています。この旧小路の通り沿いには、その名を店名にした自家焙煎カフェの COFFEE 山椒小路 が営業しています。河岸八丁のひとつで、慶長14年(1609)の記録に名前があります。昔から「山椒小路」と呼ばれていたこの地域には、宿場町として栄えた酒田湊の歴史が息づいており、歴史的な小路名として保存・継承されています。現代的な心地よさが融合した、歴史と新しい文化が交差する場所と言えるでしょう。
【稲荷小路】
本町一丁目の稲荷神社の入口近くに標柱があります。酒田市旧稲荷小路は、山形県酒田市にあった江戸時代からの古い町名(旧町名)です。現在の本町一丁目および二丁目のそれぞれ一部にあたります。町内に稲荷神社があったことが、その名前の由来となっています。江戸時代から昭和42年(1967年)まで使われた地名で,最上川に近い場所柄、船宿や船乗り、荷物を運ぶ人足などが多く住んでいました。地内にある稲荷神社には,地域の歴史を伝える大きな船玉大明神塔(船玉塔)などが残されています。昭和42年の住居表示の実施にともない、現在の「本町」へと町名がかわりました。かつて「竜徳稲荷神社」を中心に発展した地域の名称で、その神社の名前から名付けられました。現在も船玉大明神塔(船の守り神)などが残る歴史的な小路(細い道)で、港町・酒田の信仰と暮らしを今に伝える場所です。 漁師たちが海上安全と大漁を祈願して稲荷神社を勧請したのが始まりで、神社を中心に町が栄え、「稲荷小路」と呼ばれるようになりました。稲荷神社は商売繁盛、五穀豊穣、開運出世の神として、また船玉大明神は船の守り神として、酒田の港町文化と深く結びついています。「船玉大明神塔」は船の形をした台座を持ち、船主が船の帆柱に神を納めて祀った「船玉」信仰(船魂信仰)の象徴です。酒田市内には多くの「小路」があり、この稲荷小路もその一つで、古い地図でその名が確認できる歴史的な地名・小路名です。
【上袋小路】
上袋小路自治会集会所入口に標柱があります。現在の山形県酒田市本町一丁目付近にあった江戸時代からの旧町名(小路名)です。最上川などの舟運に関わる人々が暮らした「河岸八町」の一つで、道が袋状(鉤形)になっていたことが名前の由来となっています。現在の酒田市本町一丁目にあたります。東は片肴町、南は町奉行所の西側に沿って新井田川の河口方面に続いていました。通路が袋状や鉤(かぎ)の形に曲がっていたことから「上袋小路」と呼ばれました。本町から河岸へと通じる「河岸八町」に含まれ、江戸時代から川船や舟運関係の問屋・労働者が多く住んで賑わいました。1656年(明暦2年)の酒田町絵図にもすでに名前が記されており、非常に古い歴史を持つ地域です。新井田川沿いの舟着き場として栄え「船乗町」ともいわれた「河岸八丁」のひとつです。明暦2年以前の創始で、町の形が袋小路になっています。かって河岸八町と呼ばれた地域には、現在でも新井田川から本町通り方向へと続く細かい小路が残っています。昔ながらの家屋は失われたかも知れませんが、市内、特に本町・中町などの中心市街地周辺には、三十六人衆が活躍した時代を重い起こさせる通りや神社仏閣等の文化財が点在しています。
【肴町(片肴町)】
本町一丁目の秋葉神社の門前に標柱があります。酒田市旧肴町は、山形県酒田市の中心部(現在の本町一丁目付近)にかつて存在した江戸時代からの古い町名(旧町名)です。魚や水産物を扱う店や魚屋が多く集まっていたことに由来して名付けられた歴史ある地名です。町名が示す通り、魚(肴)を扱う商人が多く住み、魚市場や関連の商売に関わっていた場所です。城や陣屋、あるいは湊町としての区割りのなかで、東側に水路(お堀)があり、西側にのみ家が並んでいたことから「片肴町(かたさかなまち)」とも呼ばれていました。酒井家が入部した際などに同行した魚商人が定住したという言い伝えも残っています。昭和40年代以降の住居表示や町名地番整理により、現在の本町一丁目などの一部へと引き継がれています>明治・大正期には商業や漁業で栄えた湊町の中心的なエリアで、新住居表示(住所表示の変更)によって現在の地名に変わりましたが、旧町名保存運動などでその歴史が語り継がれている、酒田の湊町文化の重要な一部です。最上川の河口に位置し、酒田湊の発展とともに商業が栄え、特に魚市場(肴市場)があったことから「肴町」と名付けられたと言われています。酒田のメインストリートである本町通りに面し、賑わいの中心地でした。
【上内町】
いろは蔵パーク店入口近くに標柱があります。酒田市旧上内町(かみうちまち)は、山形県酒田市にあった江戸時代から昭和42年(1967年)までの旧町名です。江戸時代中期(貞享3年・1686年)に、亀ヶ崎城下東禅寺分の内町組が「上内町」と「下内町」に分かれて成立しました。亀ヶ畸城の外堀の内にできた通りだったので町名となりました。旧上内町は、さらに「上内匠町」と「下内匠町」に分かれており、現在の本町・中町周辺の地域を指していました。「内町」は、江戸時代に内陸の集落と港を結ぶ要衝として発展した地域を指し、その一部が「上内町」として歴史を刻みました。新井田川(にいだがわ)の舟運に関わる人々や、下級武士(給人)の屋敷などが置かれた内町組の一つとして栄えました。明治22年(1889年)頃から一時「酒田」を冠称し、昭和8年(1933年)からは酒田市の町名となりました。昭和42年(1967年)の住居表示の実施により、現在の本町一丁目および上本町の各一部となり、地名としては姿を消しました。
【下内町】
大通り緑地側の公共地下道近くに標柱があります。酒田市旧下内町(しもうちまち)は、山形県酒田市の南部(旧・酒田町内)に存在した江戸期からの古い町名(旧町名)です。江戸期に成立した内町組の一つで、貞享3年に上内町と下内町に分かれて成立しました。昭和40年代の住居表示の実施に伴い、現在の上本町、一番町、二番町などの一部となりました。酒田の歴史ある中心市街地の一角をなし、現在でも周辺には「下内町自治会館」などにその名が引き継がれています>酒田湊が栄えた時代からの歴史ある地名で、昭和40年代頃の住居表示変更(新住居表示)によって現在の町名に変わりましたが、資料館の企画展などでその面影を伝える活動が行われています。本町通りと内町通りの交差点周辺です(「内町」という地名が残るエリア)昭和初期までは「下内町」と呼ばれていましたが、道路拡幅などを経て、現在の「上本町」「一番町」「二番町」などに再編されました。酒田湊の発展とともに形成された町の一つで、古い町名や小路名には湊町の歴史が刻まれています。
【片町
】上本町の稲荷神社の舞うに標柱があります。酒田市の「旧片町(かたまち)」は、江戸時代から昭和42年(1967年)まで使われていた歴史ある古い町名(旧町名)です。江戸時代の内町組に属し、通り西側にのみ家が並び東側には家がなかった(あるいは片側のみ家があった)ことから「片町」と呼ばれるようになりました。現在の上本町や本町一丁目にあたります。江戸期には亀ヶ崎城下の一部であり、のちに酒田の町として発展しました。昭和40年(1965年)から昭和42年(1967年)にかけての住居表示の実施により、公式な住所としては消滅しました。現在は地域の歴史や旧町名保存の標柱などでその名が伝えられています。土蔵、新井田蔵などがありましたた。酒田市の旧片町は、かつて酒田湊の商業発展とともに栄えた歴史ある旧町名の一つで、現在の住居表示が実施される1960年代まで使われていた地名であり、主に酒田商業学校(現:いろは蔵パーク周辺)があった場所を示し、湊町の賑わいを伝える重要な場所でした。 江戸時代から続く酒田三町(酒田町、内町、米屋町)の成立以降に発展し、明治から昭和初期にかけて「片町」の地名で親しまれました。1917年(大正6年)には町立乙種商業学校(後の酒田商業学校)が設立されるなど、商業教育の中心地でもありました。
【中之口町】
新井田川の中之口橋の袂の観世音菩薩の前に標柱があります。酒田市の「中の口町(なかのくちまち)」は、現在の「上本町」および「新井田町」のあたりにあたる、江戸時代からの古い旧町名(通称町名)です。亀ヶ崎城の「中の口(出入り口)」に当たっていたことから名付けられました。元々は「中之口川端町」と呼ばれていました。川岸には参勤交代の御座船や多くの川船が行き交っていました。昭和30年代(1960年代)以降の住居表示や町名変更により、現在は上本町や新井田町などに組み込まれています。最上氏時代、新井田川筋から城への中の口に位置していたことによります。古くは「中の口川端町(かしげたまち)」と云いました。中の口町とは松山街道から酒田へ入ってくる中の口という意味です。天保年間の「酒田町絵図」には中の口橋はまだないため、幕末から明治初期に初めて架橋されたものと推測されます。木製の中之口橋は老朽化により昭和13年(1938)9月にコンクリート橋に架け替えられた。
【元米屋町】
酒田郵便局南側の新井田町にある元米稲荷神社傍に標柱があります。酒田市旧元米屋町(もとこめやまち)は、山形県酒田市にあった江戸時代からの古い町名(旧町名)です。戦国時代末期、武藤氏が新井田川の西岸に蔵を建てて租米(年貢米)を納めたことから「米屋町」と呼ばれ、のちに「元米屋町」となりました。城下町の「内町組」に属し、昭和30年代までその名称が使われていました。昭和40年(1965年)からの住居表示の実施に伴い、現在の上本町および一番町の一部になりました。酒田市元米屋町は、江戸時代から昭和42年(1967年)まで存在した酒田市の旧町名で、酒田湊の繁栄とともに発展した中心的な商業地「酒田三町(酒田町・内町・米屋町)」の一つでした。かつては米穀の取引が盛んで、本間家などの豪商も軒を連ね、酒田の経済を支えた歴史ある地域です。「元米屋町」という名称は現存しませんが、当時の米屋町のエリアは、現在の酒田市中心部の主要な商業地や住居地域の一部となっています。
【米屋町】
大通り緑地公園の入口近くに標柱があります。酒田市旧米屋町(きゅうこめやまち)は、山形県酒田市にあった江戸時代からの古い町名(旧町名)です。現在は「一番町」の一部になっています。この地に年貢米を置いた蔵があったことから「米屋町」と呼ばれました。文禄2年(1593年)に新しい米蔵が作られて「新米屋町」と呼ばれるようになったため、それまでの場所は「元米屋町(本米屋町)」と称されました。江戸時代初期から続く「酒田三町(酒田町、内町、米屋町)」の一つである「米屋町組」に属していました。昭和30年代まで使われ、昭和42年の町名変更(住居表示実施)により一番町などに引き継がれました。酒田市の「旧米屋町」とは、江戸時代から昭和42年(1967年)頃まで存在した酒田市の町名で、酒田三町の一つ(酒田町、内町、米屋町)として、酒田湊の繁栄と共に発展した商業・問屋地域でした。現在は「新住居表示」の実施により、現行の町名(〇〇町など)に変わっていますが、その歴史的な名残として「旧米屋町」と呼ばれ、酒田の湊町の歴史と文化を伝える重要な地名です。 亀ケ崎城下の東禅寺分に属し、米屋町組の町として発展しました。米(穀物)の置場や問屋が多かったことに由来するとされ、酒田湊の隆盛と共に発展し、商人町として賑わいました。「旧米屋町」は、単なる昔の地名ではなく、酒田が「湊町」として栄えた時代の活気や商家の様子を今に伝える、歴史的・文化的に重要な場所の名称です。
【給人町】
幸町2丁目の光徳稲荷神社の前に標柱があります。酒田市旧給人町(きゅうにんまち)は、江戸時代に下級武士である給人の屋敷が集まっていたことに由来する古い町名です。一番町および新井田町の周辺にあたります。江戸時代、この地域に給人(下級武士)の宅地が置かれたため「給人町」と呼ばれました。酒田の町割りのうち「内町組」に属し、片町の北側に位置していました。昭和39年(1964年)の町名地番整理などに伴い、現在の新井田町や一番町などに引き継がれています。近隣には歴史的建造物である旧松倉家住宅などがあり、かつての武家地の面影を残す地域として知られています。酒田市の「旧給人町」とは、最上方面から来た与力や給人といった役人が住んでいた地域に由来する、酒田の古い町名で、江戸時代から明治時代にかけて存在し、明治時代以降の区画整理や住居表示の変更で現在の町名に変わりましたが、その歴史と面影を伝える重要な地名です。特に、本間家の下屋敷や大庄屋の屋敷があり、静かで格式の高い地域として知られていました。「給人」は江戸時代の役職名で、この地域に住んでいた与力・給人といった役人にちなんで名付けられました。大庄屋であった尾形家屋敷や、本間家の屋敷(下屋敷)もこの地にあり、格式の高い場所だったことがうかがえます。現在の住所表示には残っていなくても、その地域の歴史を語る上で重要な旧町名なのです。
【山王堂町】
酒田郵便局南側の新井田町に標柱があります。酒田市の新井田町(にいだちょう)にあたる、江戸時代から昭和39年頃まで使われていた古い町名です。新井田川の岸や周辺に位置していました。慶長年間(1601年頃)、亀ヶ崎城主だった志村伊豆守が城内にあった日吉社(山王宮、現在の日枝神社)をこの地に移転し、町の鎮守としたことから「山王堂町」と呼ばれるようになりました。その後、低地で水害などの影響があったため、寛永13年(1636年)に現在の浜田町一丁目付近(旧近江町)へ日枝神社が再遷座されました。江戸時代の明暦年間には、山王堂町から秋田町にかけて防火のための空地(松原地)が設けられていました。酒田市「旧山王堂町」は、かつて酒田の繁栄を支えた中心市街地の一部で、明治時代に「山王祭」で賑わった地域を指し、本町通りや中町通りの一部にあたり、本間家ゆかりの地で、大火や都市計画を経て現在の町名(本町、中町、中央など)に変わるまで使われていた、歴史的な地名です。 酒田まちづくり開発株式会社の資料によると、かつてこの地に「千日堂」という念仏堂があり、それが「山王堂」と呼ばれるようになったことや、本間光丘による植林でできた美林(長坂)が地域のシンボルだったことなどが関係しています。大庄屋尾形家屋敷や本間家下屋敷もこの地域にあり、本間家旧本邸の東側は、かつて東禅寺城の外堀があった場所でもありました。酒田湊の繁栄とともに発展し、特に明治時代には「山王祭」で山車が繰り出され、その行列は半里(約2km)にも及んだとされ、賑わいを見せました。
【八軒町
】酒田郵便局東川通りと池田歯科医院との間に標柱があります。酒田市旧八軒町(はちけんまち)は、山形県酒田市の中心部にかつて存在した江戸時代からの古い町名(現在の新井田町付近)です。天和2年(1682年)に米屋町から分かれて新しくできた町で、当初8軒の人家があったことから「八軒町」と呼ばれました。現在の「酒田郵便局」周辺の一帯にあたります。明治時代には、地域の海運や陸運を支える人物(本間六兵衛など)が居住し、商業や運送業の拠点としても知られていました。昭和39年(1964年)の住居表示の実施などに伴う町名変更により、現在は「新井田町」などに組み込まれています。寛永元年(1 6 2 4)に家が建ち始め、天和2年(1 6 8 2)に米屋町の新井田川沿いを分け一町としました。当初は人家が8軒だったことに由来しています。酒田市の「旧八軒町」は、かつて酒田市にあった地名で、現在の祇園町の南側、旧安井道(現:東大路通)の西側に位置していました。明治元年(1868年)に祇園町の一部に合併され、その後、昭和30年代後半から始まった住居表示の実施により現在の町名に変わりましたが、「八軒町」という地名やその歴史は、酒田の昔を伝える「旧町名」として保存されています。
【荒瀬町
】酒田郵便局の裏通りに標柱があります。酒田市旧荒瀬町(あらせまち)は、江戸時代から昭和42年(1967年)まで山形県酒田市に存在した旧町名です。かつてこの地から北へ荒瀬郷(現在の八幡・平田地域周辺)へ通ずる道路があり、荒瀬郷の米宿があったことから「荒瀬町」と名付けられました。江戸期は亀ケ崎城下の東禅寺分のうちで、米屋町組の一つでした。現在の酒田市一番町および新井田町のあたりに位置しています。昭和40年(1965年)から行われた住居表示の実施に伴い、昭和42年に町名が変更され、現在の地名となりました。酒田市の旧荒瀬町は、かつて酒田市に存在した歴史ある町名で、現在は住居表示の変更により「こあら」というひらがな表記の旧町名保存標柱が残る場所(おそらく幸町や中央の一部)を指し、もともと家屋が並んでいた地域が区画整理で道路となり、古くからの地名を親しみやすく残した珍しい例として知られています。江戸時代から続く酒田の古い町名の一つで、「酒田町」「内町」などと共に栄え、明治・大正時代の絵図にも見られます。
【浜町】
一番町交差点の竹内ビル前に標柱があります。酒田市の「浜町(はままち)」は、昭和40年代の住居表示実施前に存在した江戸期からの古い町名(旧町名)です。江戸時代、この地一帯が砂山(砂丘地)であったことから「浜町」と名付けられました。現在の一番町、二番町、相生町一丁目および二丁目あたりに相当します。江戸時代の酒田は「酒田町組」「内町組」「米屋町組」に分かれており、浜町は内町組に属していました。明暦2年絵図では、浜町、天正寺町、近江町の地域はすべて浜町となっています。浜町の名は、この地一帯が砂浜だったことによものです。狭い意味での浜町は「内町組浜町」といわれ、善導寺の前にあったことから、「善導寺小路」ともいわれました。浜町は中町通りと違って、昔の写真があまり残っておらず、手元にあるものの中では最も古いものです。昭和40年代にはアーケードが取り付けられ、大火で道幅が広がり、その後老朽化したアーケードも撤去されるなど、変遷がありました。古くは名古屋小路とも呼ばれ、道幅は非常に狭かったようです。
【天正寺町
】相生町一丁目の天正寺入口に標柱があります。酒田市旧天正寺町は、山形県酒田市にあった江戸時代から昭和42年(1967年)までの町名です。曹洞宗の寺院「天正寺」が承応元年(1652年)に現在地へ移転してきたことにちなんで名付けられました。とは浜町の一部であり、江戸時代には亀ヶ崎城下の一部として商店が多く立ち並ぶ賑やかな町でした。明治22年頃には一時期「酒田」を冠称し、昭和42年の住居表示実施などに伴い町名が変更されました。古くからの「天正寺町通り」は、昭和30年代や酒田大火後に拡幅整備されました。酒田市旧天正寺町とは、昭和30年代まで存在した酒田の旧町名の一つで、現在の一番町や相生町一丁目にあたる地域を指します。かつては寺町(現在の中町など)の西側に位置し、天正寺(鶏足山)や日枝神社など歴史的な名所も多く、大火後の道路拡幅などで「天正寺町通り」として親しまれていました。酒田の古い町名(旧町名)の一つで、江戸時代から続く酒田三町(酒田町・内町・米屋町)の流れを汲む地域です。「天正寺町通り」は、大火後に道路が拡幅された際に「天正寺町」という地名が使われ、当時の賑わいを示す場所でした。要するに、かつて「天正寺町」と呼ばれていた場所が、現在の「一番町」「相生町一丁目」といった地名に変わった、という歴史的な呼称が「旧天正寺町」です。
【近江町
】幸町の上山王日枝神社の入口近くに標柱があります。酒田市旧近江町(おうみまち)は、山形県酒田市の現在の浜田一丁目や相生町一丁目付近にあたる、江戸時代からの古い旧町名です。最上氏の時代に「川北三奉行」の一人であった寺内近江守の屋敷(宅地)があった場所であることから、近江町と呼ばれるようになりました。現在の浜田一丁目にある上日枝神社は、寛永13年(1636年)に当時の旧近江町へ遷座した歴史を持ちます。昭和40年(1965年)からの住居表示変更などに伴い、現在の浜田一丁目や相生町一丁目などに引き継がれています。「浜の町横町」といわれ、天和2年に近江町と改められました。最上氏時代の川北奉行・寺内近江の宅跡、あるいは与力の宅跡との説もあります。上日枝神社界隈の町です。天和2年、最上氏時代に川北三奉行寺内近江の宅地跡たったことから、近江町と呼ばれました。寛永13年(1636)、亀ヶ崎城より現在地に移されました。通称「上の山王さん」として広く市民に親しまれています。この社の松の木も、根元が倒れ伸びています
【筑後町】
酒田駅前通りに近い幸町の一角に標柱があります。酒田市旧筑後町(ちくごまち)は、酒田市の亀ヶ崎城下(東禅寺分)に属していた江戸時代からの歴史ある旧町名(ちくごまち)です。現在の浜田一丁目、幸町一丁目、相生町一丁目のあたりに位置しています。貞享3年(1686年)に、川北三奉行の一人であった斎藤筑後(さいとうちくご)の屋敷跡であったことから名付けられました。元和8年(1622年)の酒井家入部当初は数軒の家がありましたが風砂で荒れたため、延宝6年(1678年)に下蔵(しもぐら)跡地へ屋敷割が行われ「鶴田口浜町」となりました。その後、前述の理由から筑後町へと改称されました。昭和41年(1966年)頃までの間、町名として使用されていました。現在の市街地の一角には、当時の旧町名や歴史的由来を記した酒田市教育委員会設置の標柱が立てられており、上に半鐘が下がっています。川北奉行の斎藤筑後の宅跡、あるいは筑後の同心与力の宅跡といわれています。元和8年に少数の民家がありましたが、寛永7年(1630)に下蔵建築のために人家が立ち退きました。しかし下蔵は寛文12年(1672)に新井田に移り、天和3年(1683)に家屋が建ちます。
【新片町
】JR酒田駅に近い幸町の一角に標柱があります。酒田市旧新片町(しんかたまち)は、江戸時代から昭和30年代頃まで山形県酒田市に存在した旧町名であり、現在の コトバンク によれば 浜田一丁目 および 幸町一丁目 の周辺にあたります。東側を新井田川(にいだがわ)に接し、南から西は筑後町(ちくごまち)に囲まれた東西に連なる町でした。享保11年(1726年)に庄内藩が、上・下の片町のうち東側などの一帯が上蔵(米蔵)に近く火災の危険があるとして住民を立ち退かせ、筑後町の北側に替地を与えて新しく区割り・検地を行って成立した町です。内町組に属し、東端には新井田川の渡しがあったことが古い記録や絵図に描かれています。その後、昭和時代の住居表示の実施などに伴い、現在の町名へと引き継がれました。西側にしか人家がなかった片町の東側にも人家ができましたが、その東に堀を隔ててたくさんの米蔵が並んでいたことから、享保11年(1726)、蔵を火災から守るため筑後町の外れに移転させて出来た町です。新堀切ともいわれました。新片町の東は新井田にいだ川、南から西は筑後ちくご町に接し、東西に連なる町でした。享保11年(1726)庄内藩は上・下の片町のうち東側27軒、向い南角4軒を、上蔵に接近し火災の危険があるとして立退かせました。替地は筑後町北側の土地をあて、普請奉行坂部八郎左衛門などが検地を行い新片町とし、記録によると家数35軒でした。
【外野町(戸野町)】
浜町通りの料理店「こい勢」の近くに標柱があります。酒田市旧外野町(とのまち)は、酒田市の中心部に存在した江戸時代からの古い旧町名(通称町名)です。江戸時代、酒田の内町組に属し、宝暦4年(1754年)頃からの開拓を経て形成されました。明治時代以降は駅前通りにつながる幹線道路・商店街として発展しました。昭和40年(1965年)から行われた住居表示の実施に伴い、現在の町名へと変更され消滅しました。酒田市の旧外野町は、かつて酒田のはずれ(外れ)にあったことから「外野町」と呼ばれ、昭和24年頃に「戸野町(とのまち)」に改称された旧町名で、現在の戸野町やその周辺地域を指し、本間家ゆかりの地や、昭和30年代の住居表示実施まで使われた歴史ある地名です。「外野町」時代: 酒田が形成された当初、最上川南岸の砂山の上に作られた、酒田の「外れ」にあった町だったため「外野町」と名付けられました。昭和24年(1949年)頃に「戸野町」に改められましたが、その理由は地元で明確な記録が少なく不明な点が多いです。本間光丘が植林(明蕉)を行い、砂を防いだことから「戸野」の地名につながったという説もあります。
【鷹町】
酒田駅前(幸町)の山形銀行裏通り稲荷神社の前に標柱があります。酒田市旧鷹町(たかまち)は、現在の山形県酒田市相生町1丁目付近にあたる江戸時代からの古い旧町名です。宝永3年(1706年)に天正寺北方の砂地を整地し、新地として124軒に割り当てたのが始まりです。地内にあった正一位稲荷神社(現在の鷹町稲荷神社)がかつて「鷹尾山金剛院」と呼ばれていたことに由来します。日本を代表する写真家の土門拳が明治42年(1909年)に生まれた地として知られています。昭和40年代の住居表示の実施により町名が変更され、現在は「相生町1丁目」の一部となっています。酒田市の「旧鷹町」とは、1960年代の住居表示実施以前に存在した、酒田湊の商人町として栄えた歴史ある地域を指し、現在の〇〇(例:本町、中央、東町など)の一部にあたり、湊町の面影や昔ながらの商店(平野屋ローソク、斎留商店など)、史跡(上日枝神社、清亀園)が残るエリアです。江戸時代に酒田町・内町・米屋町とともに酒田三町として発展し、最上川の舟運で栄えた商人町の中心地でした。「鷹町」という地名は残っていませんが、上日枝神社(上の山王さん)、平野屋ローソク(絵ろうそく)、斎留商店(芭蕉せんべい)、清亀園(名園)といった歴史的な名所や老舗が点在し、湊町の面影を伝えています。
【新町】
日和山公園の真浦(大浜方面)からの登り口中腹に標柱があります。かつて北前船の寄港地として栄えた山形県酒田市の高野浜(現在の南新町周辺)に存在した、歴史ある花街・遊郭跡の通称です。もともと「高野浜」や「新屋敷」と呼ばれていた一帯で、江戸時代に米蔵(御米置場)が置かれたことなどから「新町」へ改称されました。明治27年(1894年)の庄内大地震により、当時あった船場町・今町・新町の3遊所のうち他が廃止され、新町のみに統合されて大規模な花街となりました。北前船の船頭衆や商人らが多く訪れ、酒田甚句にも歌われるほど大変な賑わいを見せ、歌人・若山牧水なども宿泊した記録が残っています。現在の南新町周辺にあたり、当時の区画や下り坂の道筋などが一部に残されています・空海が一寺を建てたという伝説のある「高野浜」は酒田御町外とされていました。江戸末期、高野浜と下山王社との間に町がつくられ「高野浜新屋敷」となり、万延元年(1860)に「新町」と改称し酒田組になりました。現在使われている市内の町名は、昭和40年から3か年をかけて変更された町名ですが、江戸時代から長い間酒田に住む人々から使われてきた町名について、ある日を境に違う町名で呼びなさいといわれたものです。地名とは何百年と続く文化そのものであるにも関わらず、国の指示で異なる地名に変えることを余儀なくされた事情はあまり知られていないのではないでしょうか。
【濱畑町】
本間美術館と八雲神社の間にある通り(御成町)に標柱があります。酒田市旧濱畑町(はまはたちょう)は、山形県酒田市の北西部、現在の栄町周辺などに位置していた江戸時代から昭和41年(1966年)頃まで存在した古い町名です。もとは日本海からの強い風が吹き付ける一面の砂原・不毛の砂丘地でしたが、江戸期から開墾が進み町として形成されました。本間美術館の裏手黒塀周辺や、現在の酒田市栄町周辺にあたります。江戸期から近代にかけて「浜畑村・浜畑町」として続き、昭和41年の住居表示実施などに伴い町名が変わり消滅しました。周辺には現在も歴史的な黒塀や古い町並みの面影が残るエリアがあります。酒田湊の繁栄と共に形成された酒田市東部の古い町名の一つで、砂丘地帯(砂原)に家々が建ち並び、後には「新町」とも呼ばれた歴史ある地域を指します。酒田湊の発展とともに、砂丘地(砂原)に人々が住み始め、次第に町が形成されました。砂原が次第に砂山となり、その防風のために簀垣(すがき)を立てたことや、本間光丘の植林による美林(長坂)に由来するとも言われます。
【千日堂前】
南千日町の酒田南高等学校キャンバスの入口に標柱があります。酒田市の「北千日堂前(きたせんにちどうまえ)」は、昭和初期の区画整理事業によって形成された旧町名および現在の小字名です。南千日町にある瑞相寺(通称・千日堂、浜の念仏堂)に由来します。もともと畑地だったこの地域は、昭和13年(1938年)頃からの区画整理事業によって住宅地として開発されました。その後、昭和40年〜42年の住居表示実施などに伴い、現在の「千日町」「北千日町」「南千日町」などに再編され、「北千日堂前」は旧町名や一部の字名(北千日堂前字松境など)として残っています。なお、地域にある老舗の「千日堂そば屋」などの店名は、かつてのこの周辺の呼び名に由来しています。「酒田市旧千日堂前」とは、酒田市でかつて存在した地名で、現在の北千日町周辺を指し、南千日町にある瑞相寺(ずいそうじ)を「千日堂」と呼んだことに由来する、酒田の歴史的な地域名です。明治時代から存在し、昭和40年代の住居表示変更で「北千日町」などに再編されましたが、その地域の歴史を示す旧地名として今も使われています。瑞相寺が「千日堂」と呼ばれていたことから、その周辺が「千日堂前」と呼ばれるようになりました。江戸時代からの酒田の発展とともに商業地・住宅地として栄え、特に昭和初期の区画整理で大きく発展しました。
【堀端(鍛冶横小路)】
旧本間邸の横に標柱があります。酒田市の「鍛冶横小路(かじよここうじ)」は、江戸時代からの伝統的な町割である南北の「小路」の一つです。酒田では東西の縦軸を「通り」、南北の横軸を「小路」と呼びました。鍛冶職人などが多く住んだり、関連する町並みや横道であったりしたことにちなむ古い地名(通称・小路名)です。酒田の歴史ある湊町の区画として、古い地図や地域の記録にその名が残されています。かつて本間家旧本邸の東側などに存在した、城下町のお堀の端(周辺地域)を指す歴史的な呼び名です。上杉氏の時代に、城下町と酒田町組を分ける目的でお堀が作られました。その「堀の端」に位置していたことから、「堀端」と呼ばれるようになりました。本間家旧本邸東側の通りです。本町と鍛冶町の中間辺りから東の新井田川と肴町を通し、新井田川下流へと通じる亀ヶ畸城の外堀がありました。古くは西側にのみ家かおり「片平町」とも呼ばれていました。元禄9年絵図では「鍛冶町横小路」といわれ、慶長四年(1599)東禅寺城主志田義秀(しだよしひで)は関ヶ原戦に備えて鵜渡川原(うどがわら)と旧内町組の一部を堀と土塁で囲いました。その内、鍛治町から本間家本邸東側にかけての所を特に堀端と称し大欅が並び美観を呈していましたが、明治二年埋立てられました。
【祖父山下】
中央西町の泉流寺の東側国道112号線に標柱があります。現在の山形県酒田市中央西町や中央東町あたりにあった、かつての古い町名(通り名)です。かつて中央東町の妙法寺公園あたりにあった高さ約30メートルの大きな砂丘の呼び名です。寺男(お寺で働く男性)の「ジジ」が砂を運んだという伝説から「ジジヤマ」と呼ばれ、その山の麓の通りが「祖父山下」と名付けられました。昔の寺町祖父山下と呼ばれていた通りは、現在「中央西町」や「中央東町」に変わっています。中央西町にある老舗和菓子店「東根菓子舗」の看板商品である「祖父山下ロール」というお菓子の名前などに、旧町名が今も受け継がれています。酒田市の「旧祖父山下(じじやました)」は、かつて妙法寺が移転した際に、風砂を防ぐための防砂垣が作られた砂地が由来の地名で、現在の中央西町・中央東町あたりに相当し、当時は「寺町祖父山下」と呼ばれ、「祖父山下の松(子産させの松)」などの歴史も持つ、酒田の古い地名・町名です。元禄年間(1699年頃):妙法寺の十一世日永が、火災の類焼を防ぐため、寺の後方の砂地(約3万坪)を借りて寺を移転し、防砂のために簀垣(すがき)を立てたことから「祖父山下」と呼ばれるようになりました。この地域は、その後「寺町祖父山下」と呼ばれました。
【柳小路】
中町二丁目の第二パーキング日和の横に標柱があります。酒田市旧柳小路とは、江戸時代に防火帯として整備され、戦後には「柳小路マーケット」という市場で賑わった酒田市中心街の通りです。宝暦10年(1760年)に大火の後の東西防火壁として道路を広げ、新井田川から水を引き溝を掘ったのち、柳を植えたことから「柳小路」と呼ばれるようになりました。戦後まもなく、この通りや近くの清水屋周辺に鮮魚などを売る露店や「柳小路マーケット」が集まり、地域の台所や繁華街として大いに活気づきました。かつての面影を残す一角は、現在ではレトロな雰囲気を楽しめる酒田柳小路屋台村 北前横丁などの飲食街として活用され、観光客や地元の人々に親しまれています。かつての酒田の小路で、湊町として栄えた酒田の歴史と文化が息づく場所の面影を残しています。現在は「住居表示に関する法律」により住所表示は変わりましたが、「利右衛門小路」などと共に、昔の面影を伝える旧町名として資料館などで紹介されています。宝暦10年(1760年)頃、東西の防火壁として道路を広げ、新井田川の水を引いて溝を掘り、そこに柳が植えられたことから「柳小路」と呼ばれるようになりました。最上川の河口に位置し、海運で発展した酒田の町には、河岸八丁と呼ばれる新井田川沿いの町々や宿場町(秋田町・伝馬町など)があります。要するに、昔の酒田の「柳が並んだ水路沿いの小道」が「旧柳小路」で、今も歴史の証人として残る地名・風景の一部です。
【長坂】
光ヶ丘一丁目の郵便局近くの三叉路に標柱があるのですが、折損していました。酒田市旧長坂とは、現在の山形県酒田市光ヶ丘周辺の古い地名です。現在の酒田市光ヶ丘にあたる地域です。大正5年(1916年)に、酒田の繁栄の礎を築いた豪商・本間家3代の本間光丘(号:光丘)の偉業を称えて、「長坂」から「光ヶ丘」へ改称されました。光ヶ丘周辺(旧長坂)はかつて長坂松林などがあり、大正中期頃までその地名が使われていましたが、本格的な宅地化は戦後になってから進みました。現在の酒田市光ヶ丘は明治の頃長坂と呼ばれていました。大正4年(1915)刊行の『荘内案内記』には長坂松林のことを「漫歩に宜く納涼によし」と紹介しており、当時から人々に親しまれていた様子がわかります。本間光丘の植林事業により、下山王社から高砂に通じる道は一大美林となり、長坂と呼ばれ親しまれたことから名付けられた。大正8年(1919)8月に光ケ丘グランドができる前は、運動場の狭い学校では運動会を当時長坂松林といったこの道路で開催していました。本間光丘の植林事営により、下山王社から高砂に通じる道は一大美林となり、長坂と呼ばれ親しまれたことから名付けられました。酒田湊の繁栄と共に次第に人家が建つようになりました。
【高野浜】
北新町二丁目の稲荷神社前に標柱があります。酒田市旧高野浜(こうやのはま/こやのはま)は、江戸時代に北前船の寄港地として栄えた山形県酒田湊の港町(現在の新町周辺)の古い地名であり、遊所(遊郭)が置かれた繁華街です。江戸時代の酒田において、全国各地の船が行き来する物流の玄関口として栄えました。酒田の3大遊所(今町・船場町・新町)の一つで、旧高野浜はのちの「新町」にあたります。船乗りたちが集まり、大変な賑わいを見せました。弘仁年間に弘法大師(空海)が湯殿山を発見した際、対岸から川を渡りこの地の石に腰を下ろして海岸を見渡し名付けたという伝承があります。境内には「弘法大師の腰掛石」を伝える新町稲荷神社があり、江戸時代からの獅子舞も伝承されています。酒田市の「旧高野浜」は、かつて遊廓があり賑わった歴史的な地名で、現在の酒田市新町の一部にあたり、「弘法大師の腰掛石」が残る村社稲荷神社(北新町)周辺がその中心地でした。最上川の河口近くに位置し、明治大震災で大きな被害を受けましたが、酒田の繁栄を歌った「酒田甚句」にも登場するほど、かつては港町の中心地として栄えた場所です。酒田港の繁栄と共に今町・船場町に娼家が数戸でき、これを茶屋と称していたが、文化10年(1813)3月初めて今町の茶屋37軒、船場町の茶屋36軒が公に認められた。高野浜の茶屋はそれより遅く文政4年(1821)に公認されました。以降酒田町三遊所として諸国に名を知られていました。明治27年(1894)の庄内地震で今町と船場町が大きな被害をうけると、遊郭は新町(高野浜)に移転しました。
【神明坂】
酒田港側から日和山公園へ上る階段の手前に標柱があります。酒田市神明坂(しんめいざか)は、山形県酒田市にある、港と市街地を結ぶ歴史的な石段の坂道です。文化14年(1817年)に、酒田の豪商・本間家第4代の本間光道によって造られました。港から荷物を背負って運ぶ人たち(丁持ち)の苦労を和らげ、荷役の便を良くするために作られた近道です。名称は、坂の上にある皇大神社(通称:神明さん)に由来しています。坂を登った先には皇大神社や金毘羅神社があり、日和山公園とも繋がっています。前船の乗船者や往来の人々も利用した場所で、周辺からは酒田港を見下ろすことができます。酒田市旧神明坂は、江戸時代に本間家4代当主・光道が、北前船で栄えた酒田湊と市街地を結ぶ近道として、皇大神社(神明様)へ続く参詣道として整備した石段の坂道で、航海安全を祈願した船頭衆が往来した歴史的な道です。港と市街地をつなぎ、荷物の運搬の労を軽減する目的もあり、現代に残る歴史的景観として酒田の湊町の面影を今に伝えています。文化14年(1817年)、本間家4代当主・光道によって造られました。湊から酒田の市街地への近道となり、特に船頭衆が重い荷物を背負って運ぶ丁持ちの負担を軽減するため、石段が整備されました。坂を上った先にある皇大神社(通称「神明様」)は、航海の安全を祈願する場所として、日本各地からの船頭衆にとって重要な場所でした。
【芭蕉坂】
港方面から出町方向の日和山の登り口に標柱があります。酒田市芭蕉坂(ばしょうざか)は、元禄2年(1689年)に『おくのほそ道』の旅で酒田を訪れた松尾芭蕉が、上陸地から市街地へ向かう際に歩いたと伝えられる坂道です。酒田市の日和山公園横、神明坂の石段の脇から酒田港(最上川・船場町側)へ向かって下る細い坂道です。当時、酒田を訪れた旅人や俳聖・松尾芭蕉と門人の河合曾良は、最上川・酒田港の船着場付近から上陸し、この坂を歩いて市街地(宿となった伊東不玉邸など)へ入ったとされています。芭蕉が歩いたとされる道筋の坂道には、その由来を示す「芭蕉坂」の標柱が建てられており、周辺の歴史散策ルートの一部となっています。松尾芭蕉は『奥の細道』の旅で酒田を訪れ、庄内藩のお抱え医師不玉宅に滞在し、多くの名句を残しました。特に日和山からの夕景の句や、豪商・近江屋(玉志)宅での句会が有名で、日和山公園には芭蕉像と句碑があり、不玉宅跡には記念碑が建っています。「暑き日を海に入れたり最上川」(酒田で最初に詠んだ句)。安種亭(安種亭令道宅跡)で詠まれました。「あつみ山や吹浦かけて夕すずみ」(不玉宅での歌仙で詠んだ発句)。日和山公園の句碑にも刻まれています。庄内藩のお抱え医師・不玉や、豪商・近江屋(玉志)らと交流し、句会を開くなど親交を深めました。酒田は『奥の細道』の旅の中でも特に重要な滞在地であり、当時の豪商文化が芭蕉をもてなしたことがうかがえます。